譲れないもの2008-04-24 Thu 03:49
その声に釣られ、弾かれたように上方を見上げた。
目に飛び込んで来たものは、光輝く月と星。そこに男の影はない。 その光が不思議といつもより強く感じた。目を指すように痛い。 ストッ 背後で地面と靴が挨拶を交わす、軽やかな着地音が聞こる。 と同時に、左側から太く大きな腕が首に回された。 ゴクリと唾を飲み込む音が、耳の奥に響いてくる。 男の吐く息が肌に感じられ、剣を持つ右手に男の手が添えられた。 抑えようとする意思は感じられるが、必要以上の力は込められていない。 ふとその手に視線を落とすと、切り裂かれた袖口から、冷たく黒光りするものが こちらを覗いている。 「やっぱり、手甲か・・・。」 「用心深いんでな。」 男は苦笑するようにそう言うと、左手に少しだけ力を込めた。 冷たく硬いものが、首に押し当てられる。その感触で、ヒルダは全てを理解した。 「戦う気はない・・・そう言うことかい?」 「・・・・・・」 男の手にしているのものは、恐らく片刃のナイフだ。 首に当てられている部分は、伝わってくる幅の広さから刃ではなく峰の部分だろう。 少しでもこちらを殺傷する気があるのなら、今の機会を逃すはずもない。 思えば、この男はコルスと戦っている時も、自分と戦っている時も、 唯の一度として自ら攻撃を仕掛けてはいない。 最初に剣を振った時、男の気負いのない涼やかな顔が妙に癪に触った。 余裕たっぷりに相手を見下し、何時でも倒せると思っている顔に見えたからだ。 「あねさんっ!」 後ろを取られ羽交い絞めにされたヒルダを見て、男たちは一斉に剣を抜いた。 だが、組織の副頭目を人質に取られた格好で、誰一人動けずにいる。 (負けたのか・・・あたしは・・・?) 今の自分の体には傷一つ付いていない。 それよりも、相手は戦う意思さえ見せず逃げ回るばかりの男。 そんな男に、背後を取られ、あまつさえ、主導権を与えてしまっている。 軽くあしらわれているように感じる自分が、無性に許せなかった。 (まだ・・・まだだっ!) ヒルダは歯を噛み締め、首にグッと力を込めた。 そして、首筋に当てられたナイフに向かって行く形で、思いっきり体を前傾さえた。 「!?」 目の前の女の動きは、完全に制したはずだった。 これからどうやってこの状況を切り抜けるか、その算段を探している矢先、 女が信じられない行動に出た。 例え、首筋に当てている所が峰の部分であったとしても、 手首を一つ返すだけで、刃を使い斬ることは容易い。それはわかっているはずだ。 傷つける気は毛頭無い、威嚇にはこれで十分だと思っていた。 だが、ヒルダは首筋に当てられたナイフを物ともせず、こともあろうに、 それに向かって体重を預けたのだ。 一瞬の油断と、相手を傷つけまいとする心が、体のバランスまで崩した。 ヒルダの動きに釣られる形で、前方へと傾倒しそうになる。 ドスッ その刹那、息の詰まる衝撃が脳天へと駆け抜けた。 ヒルダの左肘が、脇腹へと突き刺さっている。 「ぐ・・ぅ」 完全に虚を衝かれ、腹筋を固める暇が無かった。 瞬間的に呼吸と体の力が奪われ、自然と膝が落ちていく。 ヒルダは、自分を抑えている力が弱まったのを感じ取ると、 右腕を振りほどき、素早く前方へと飛び去った。 「あたしは真剣勝負を挑んだんだっ!命を失うまで負けはないっ!!」 十分な距離を取って構え直し、弾む息を整えながらそう叫ぶ。 「無抵抗など、戦士への侮辱だっ!さあ、武器を取って戦えっ!」 脇腹を押さえたまま、力無い目でこちらを見る男を、罵倒せずにはいられなかった。 自分を鼓舞する為に、そして、その目に惹かれている自分を振り払う為に。 わずかに、二人の間へと無言の静寂が訪れた。 相手が何を考え、どう思い、どう動くのか、それを互いの目を通して探り合っている。 後ろに控える男たちも、その様子を息を呑みながら見つめていた。 「そこまでだっ!ヒルダ!」 この空間に張り詰めていた糸が、その声でプツリと切れた。 その場にいた誰もが一斉に振り向き、声のした場所の唯一点を見つめている。 視線の先に、宵闇に照らし出されるように一つの人影が浮び上がっていた。 その影は、場にいる全ての人間が動きを止めたことを見受けると、 ゆったりとした足取りでこちらへと向かって歩き出したのだった。 |
生への錯綜2008-04-22 Tue 03:08
「イヤァァッ!」
ヒルダが追い足と同時に、片腕での突きを繰り出した。 それは、寸分の狂いもなく正確に、胸の方へと迫ってくる。 サクッ 即座に体を半転させ、その突きをいなしたつもりだったが、 その押し込みの鋭さは、上着の胸元を横一文字に切り裂いていった。 (この距離はまずい。) 相手の勢いを外し間合いを取る為、地面を強く蹴って後方へ飛ぶ。 だが、ヒルダもそれを予期していたとばかりに、素早くこちらの方へと重心を移し、 息をつく暇もなく距離を詰めてきた。 「ハァァアッ!」 強く短い気声がヒルダの口から漏れた。と同時に、反転の勢いと、 体の捻りを利用した重く鋭い斬撃が、女の左の肩口から斜め下へと斬り下ろされる。 ガキィッ! 「殺った!」 男たちが一斉に叫んだ。威力、深さ共に、人の命を取るのには申し分のない一撃。 これで決まったと傍目からはそう見えた。 しかし、ヒルダは躊躇なく体勢を整えるようにして半歩後ろに退くと、 剣を素早く手元に引き、その勢いに任せもう一度袈裟斬りに剣を放った。 ガキィッ! 先程と全く同じ音が、男たちの耳に響いてくる。 月明かりを頼りとして暗がりに目を凝らし、二人の様子をよく見ると、 男の右腕とヒルダの剣がぶつかり合い、押し合っていた。 「ちぃっ!」 ヒルダは大きく舌打ちをすると、歯を食いしばり、力任せにグィッと手を押し込んだ。 こちらは両腕、相手は片腕。如何に元の腕力に差があろうと、体重を込めれる分だけ、 こちらが優勢なはずだった。 (もう少しだ・・・。もう少しで・・・。) 力と力のせめぎ合いは頂点へと達し、体勢で有利なヒルダの剣が、 男の喉元へと徐々に寄っていく。 瞬間、男の方から向かって来ていた力の圧力が、すっと無くなった。 驚きを伴う一瞬の空白の間に、男の体も眼前から消えている。 「あっ!?」 己が放った渾身の力は中空を彷徨い、それが自分の背中を押す形となった。 前方へ倒れ込みそうになるのを、力の流れに乗るように前転して凌ぐ。 何とか跪いた状態で体を起こし、体勢を保った。 思考が次ぎの行動に追いついてこない。まだ目の前で起こった事が信じられずにいる。 息を感じ取れる程に、間近にいた男。それが、目で追えない程の速度で何処かに消えた。 ただ生きる。この世界では、そんな簡単な事に莫大な労力がいる。 隙を見せれば盗まれ、心を寄せれば裏切られ、時には、一方的な力で奪われる。 「弱さは罪だ」と、いつも自分に言い聞かせてきた。 他人に強さは求めない、己の強さ、ただそれだけがヒルダの至高の価値だった。 その為の強さを得え、その自負を通す為に、日頃から肉体的な修練を欠かせたことはない。 組織間の抗争には、常に矢面に立ち、幾度も命の遣り取りを経験してきた。 ヒルダの経験から、単純に側面へと体位を変え、こちらの力を受け流しただけならば、 その動きを目で追い、かつ、剣を反応させる力は、十分に持っているはずだった。 だが、男は文字通り、どこに行ったのか予測不能な程の圧倒的な速度で、「消えた」のだ。 不意に後方からの人の気配が、意識を今の自分が置かれている状況へと引き戻した。 手で包まれ温かく湿った剣の感触を、もう一度確かめる。そして、急いで後ろを振り返った。 振り向きざま、視界の隅を黒い影が過ぎったように感じた。 それを正確に捉える為の僅かな時間、一瞬の貴重な間を、先程の動揺が奪っていた。 (くっ、また!?) 「あねさんっ!上だっ!」 男たちの中の誰かが叫んだ。 |
炎の鱗2008-04-18 Fri 20:52
コルスはじろりとこちらを向くと、足を広げ、両膝を曲げて中腰の体勢を作った。
ズズ・・・ズズズ・・・ その足元からは、足の指に力を込めて地面を噛む音が聞こえてくる。 そして、上半身を前傾させた上で、鷹揚と両腕を広げた。 広げた両腕は、左右どこにも逃がさないと言う意思表示だろうか。 (参ったな・・・。) このコルスという男から感じられるものは、人の放つそれとは別のものだ。 理性よりも明らかに、野生の匂いの方が強い。 1:1の状況になったことは幸いだったが、野生の感覚で戦う者は、 知識と経験で戦う者よりも、動きの予測が立て難い。 (試すか・・・。) コルスの前足がジリりッとこちらへとにじり寄った。そして、 「ウォォーッ!!」 激しい気声と共に、右腕を頭の上に振りかざし、大きな体を揺らしながら突進してくる。 巨大な肉の塊が、地響きを伴って眼前へと迫ってくる。その圧倒的な迫力は、 並みの人間ならば裸足で逃げ出すくらいのものだろう。 コルスは、突進の勢いを緩めることなく、目の前に居る自分よりも小さな男へと、 力任せに右腕を振り落とした。 グァシッ 肉と肉、骨と骨が互いにぶつかる鈍く重い音が、辺りに響く。 後ろで見ていた男たちは、一様に、終わったという確信の笑みを浮かべた。 「あ・・・あで・・・?」 最初に異変に気付いたのは、一番近くにいたコルスだった。 組織の中でのコルスは、その体を活かした戦闘要員であり、常に前線で戦ってきた。 これだけ大きな港町だと、あらゆる所から人や物が集まり、自然、利益が生まれる。 そのエサに群がる人間たちで、構成された組織は10は下らない。 組織は互いの利益を巡って反目しあい、対立している。争いは頻繁に起こるのだ。 言葉も上手にしゃべれず、考えることは大の苦手だ。 だが、丈夫な体と腕力だけは誰にも負けない自信があり、事実、そうだった。 いつもなら、自慢の右腕を力いっぱいに振り下ろせば、敵の姿は目の前から 消えて無くなる。力の圧に耐えかね、吹き飛んでしまうのだ。 だが・・・ 目の前の男は、こちらの攻撃を受けても、その場から微動だにしていない。 左の片腕だけで、こちらの攻撃の勢いを完全に止めてしまっている。 「おいおいコルス、手加減は無しだぜ〜」 「いつものように、さっさと倒しちまえっての!」 「優しいねえ、コルスちゃ〜ん!」 後ろの男たちが、コルスを囃し立てる様に喚き散らしている。 「はは・・・、そ・そうだ・・な。おで、手加減し・・しちゃった・・かな?」 コルスは恥ずかしそうに言うと、右腕は預けたまま、空いた左腕を高々と振り上げた。 「んだ・・ば、も・もう一回・・・。ウォォーッ!」 パキィッ! 乾いたものが折れた、耳に障るような高く響く音がした。 「うぎゃぁーっ!」 最初、悲鳴を発したのはコルスが相手にしている男だと、後ろで見ていた誰もが 信じて疑わなかった。 だが、実際に、悲鳴を上げながら地面をのた打ち回っているのは、 攻撃をしたコルス本人だったのである。 「おで・・の、う・・う・うで・・・でがあぁぁぁっ!」 相手の男と接触したと見られるコルスの前腕の部分が、 内側の方から不自然な様子で、くの字に折れ曲がっている。 「う・・うう・・う・・」 左腕を押さえ、うずくまっているコルスを見下ろすように、男は悠然と立っていた。 男の立っている位置は、微塵も動かず、先程と全く変わっていない。 男がコルスの方へと歩み寄る。それを見ていた男たちの集団は、 目の前に光景に呆気を取られ、時間を奪われたかのように固まったままだった。 コルスは頭の上から近付いてくる足音を感じ、腕の痛みを必死に抑えながら 恐る恐ると顔を上げた。 「あ・・・・あ・・・あ・・。」 眼前の男の目の光が、この上なく冷たく、無慈悲に見えた。 足が竦み、震え、腰に力が入らない。口の辺りでカチカチという音がする。 今思えば、この男と向かい合ったその時から、何かがおかしかった。 今まで生きてきた中で、全く初めてな感覚。 無意識のうちに、口も喉も、張り裂けんばかりの声を発していた。 自らの内に篭もるもの全てを、体中の穴という穴から外に向かって吐き出すように。 その場に立つ己の姿を、意識の外で懸命に探した。そうせずにはいられなかった。 逃げたい・・・逃げられない・・・前に進むしかない。少しでも自分を大きく見せて・・・。 さっきまで頭の中を支配していた痛みが、さっと消えた。 だが、それよりも厄介で、不可思議で、抗い難いものが心の中を支配してしまった。 (こ・・こ、わ・・・いぃ・・・。) 男の手がコルスに届く位置に、後、半歩というところまで近寄った時、 二人の目の前をサッと赤く光るものが横切った。 「そこまでだっ!」 ヒルダの持つ剣が左側から割って入り、コルスと自分との距離を隔てる楔を作る。 丸めた背を震わし呻いていたコルスは、ヒルダが近くにいることに気付くと、 子供のように泣きじゃくり、哀願するような声を出した。 「あ・・・あねさ・・ん・・・、お・・おで・・・おで・・・」 ヒルダは、コルスの頭に手を置くと、赤ん坊をあやす時のような目でコルスを見た。 そして、その頭を優しくさわっと撫でた。 「コルス、悪かったね・・・。最初からあたしがやってればよかった。」 そう言ったヒルダは、さっと男たちの固まりへと目をやった。 「お前たち、コルスの手当てをしてやりなっ!後はあたしがやるっ!」 指示を受けた男たちが、数人掛かりで引きずりながら、コルスを後方へと運んで行く。 ヒルダはそれを見届けると、徐にこちらを向き、怒気のこもった目で睨んだ。 「このままだと組織の沽券に関わるんでね。すまないが、あたしの相手をしてもらうよっ!」 ヒルダの持つ剣の先が、ゆっくりとこちらに向けられる。 その剣の形状は、反身の片刃で長さこそ普通だが、幅が広く分厚い。 そして、何よりも目を惹くのが、刀身が燃えるような赤い色を放っていることだった。 「得物を持ちな・・・。無抵抗な相手を斬るのは趣味じゃないんだ・・・。」 妖艶な光がヒルダの目に込められている。 仲間を傷つけられた怒り、戦いへの渇望、目の前の男への疑惑と困惑、 様々な感情が入り混じり、溶け合い、融合してる。 こちらの無言と、得物を手にする動きすらないことに、ヒルダの苛立ちは頂点に達した。 「舐められたもんだ・・・・ねっ!」 語気を強めた瞬間、ヒルダは手首を返し、踏み込みと同時に持っている剣を右へと払った。 瞬き程の差で後方へと飛び、その剣をかわす。首筋にチリリと熱い感覚がある。 (速い・・・) 油断ならない相手の技量を感じ取り、意識が目の前の女の方へと集約される。 固まって行く視界、だが、緊張と警戒の度合いを強めていく体とは逆に、 心の中が緩やかに鎮まっていくのがわかった。 遠くで楽しげに舞い踊る風たちが、歌を重ねる優し気な声が聞こえた。 |
海の落としもの2008-04-17 Thu 16:32
「くっ!」
咄嗟に、首の付け根の辺りで固定していたマントの留め金を引き千切った。 ガキンッ 空から振り下ろされた剣が、対象と激しくぶつかり合う音が周囲へと響く。 「はっ、殺ったぜ!ざまあみやがれっ!」 自分の勝利を確信した男が、吐き捨てるように大きな叫び声を上げる。が、 次の瞬間、男の手を通してとやってきたものは、何千、何万の蟻たちが、ゾロゾロと 這い上がってくるような奇妙な感触だった。 「!!」 男の手から、するりと剣が落ちた。そして、痺れからくる苦痛に耐えかねるように、 声にならない叫びを発する。 男の剣が捉えたものは、黒い布に覆われた硬く大きな石だった。 不意を衝かれ、剣を受けることが不可能だと悟ったことで、体を左へと横転させながら、 羽織っていたマントを男の方へと投げ付けた。 路地の暗闇と、黒いマントが、空中から接近する男の目測を誤らしたのだった。 「ちっ・・・」 回転の勢いを殺す為、右膝で地面を打ち、跪いた状態で体勢を立て直す。 そして、頭上からの探索を想定しなかった己の甘さを思い、舌打ちをした。 隠れていた場所から飛び出す形となり、視界の端には多数の足が確認出来る。 膝を付いたままの状態で顔だけを上げると、間合いを僅かに外した距離で、 女を筆頭とした集団がこちらを見下ろしていた。 「あねさんっ!間違いねえ、こいつです!」 女の背後から勢い良く男が飛び出し、指を差しながら喚く。 「うるさいよ、チック!仲間を見捨てて逃げ出すようなフニャチン野郎は黙ってなっ!」 先頭の女にすっかりと気勢を削がれ、男はオドオドと集団の後ろへと隠れてしまった。 そして、女は先程まで自分たちが隠れていた場所へと目を移し、声を張り上げた。 「ラット!お前の近くに子供がいるはずだ!捕まえて保護しなっ!」 (保護・・・?) 女が発した言葉に違和感を覚えた。先程の、子供を捕まえようとしていた男たちの行動は、 その表現とは程遠いものだったからだ。 ラットと呼ばれた男が、気絶したままの子供を担いで物陰から出て来た。 女はそれを確かめると、今度はそこから逆の方を向き、屋根の辺りを見上げながら言った。 「イーグ!スネイル!そっちは用済みだ、降りてくるんだ!」 女の視線を追い屋根の方へと目を向けると、黒い影が二つ、 すくっと起き上がるのが見えた。 「さて・・・お兄さん・・・。」 二つの影が移動するのを確認するや、女はこちらを向き直り、 声を低くして呟く様に言った。 「手荒な挨拶で悪かった・・とは言わないよ?家の者が世話になったようだしね。」 両横から、数人の人間が動く足音と気配がする。 子供を抱えたラットが集団の後方へと移動し、 イーグとスネイルの二人が男たちの固まりへと合流した。 女はそれをチラリと一瞥すると、もう一度こちらへ目を向け、話を続ける。 「あたしらの組織の名は『カトラス』と言う。聞いたことないかい?」 そう言うや否や、女は右手の親指を立て、自分の顔を指した。 「そしてあたしは、そこで副頭目をしてる『ヒルダ』だ。」 こちらの返答を待たず、女はそう名乗った。 そして、社交場の貴族が挨拶を交わすかのように、そのしなやかな手を胸の方へとやり、 ゆっくりと優雅に、体を前方へと折り曲げた。 「以後、お見知りおきを・・・。」 お辞儀をするように丁寧に折り曲げられた体とは別に、 鋭く射抜くような目がこちらを向き、口元には不敵な笑みが浮かんでいる。 そのまま、こちらを値踏みするように視線を這わせると、 ヒルダはふと眉間にシワを寄せて、不思議そうな顔をした。 「ふーん・・・、良い体してる・・・。それに、その顔の斬り傷・・・あんた素人じゃないねえ。」 「背中の長い包みは、差し詰め短槍かい?てことは、流れ者の傭兵ってところか・・・」 「その余所者のあんたが、なぜ家にちょっかいを?誰かに雇われたかい?」 「・・・・・・」 下手に事情を話したところで、相手の様子が変わるとはとても思えない。 それよりも今は、この状況をどう切り抜けるかに思案を巡らせねばならなかった。 獲物を使わずにこの人数を相手取れば、こちらも無事には済まないだろう。 男たちが腰に下げている剣を抜けば、素手では限界がある。 だが、出来ることなら背中のものは抜きたくはない・・・。 戦うのは構わないが、事を大きくして、この後も追われるような因縁を作ることは、 絶対に避けなければならない。 こちらの口が開かないのを見て取ると、 ヒルダは仕方の無いと言うような表情を作った。 「そうかい・・・だんまりかい・・・。」 ふっと目を閉じたヒルダは、少し間を置いて後ろの方へと顔を向けた。 「コルスッ!出ておいでっ!!」 ヒルダがそう言うと、後方の集団から、他の男たちよりもひと際体格の良い巨漢の男が、 のそのそと前に歩み出てきた。 背丈は自分の頭二つは大きいだろうか、腕は丸太のように太く、盛り上がっている。 はだけた衣服から覗く胸板は、びっしりと毛で覆われ、鉄板のように厚い。 髪は短く刈り込まれ、顎には無精髭を隙間無く生やしている。 だが、男の顔の作りは角ばった精悍さよりも、丸みを帯びた柔らかさを漂わしている。 クリっとした丸い目は、愛嬌があり妙に子供っぽい。 「あっあね、さん・・・こっ・・こいつ・・・」 コルスと呼ばれた男は、まるで赤ん坊が母親に問う時のような無垢な表情を作り、 吃音が強い、たどたどしい発音で声を出した。 「や・・やって・・やって・・もいい・だか?」 「一応筋は通さないとね・・・。殺さない程度にやるんだよ?」 ヒルダはそう言うと、後ろに控える男たちとは離れる形で、並び立つ家の方へと足を進めた。 そして、壁際まで行くと、すっとこちらへ向き直り、背中を壁に預け腕を組んだ。 「お・・・オウゥー!!」 ヒルダのその動きが合図だったかのように、コルスは勢い良く腕を振り上げ、 天高く、黒い空を切り裂くような雄叫びを発した。表情が先程とは一変している。 それは、戦うべき相手を見つけた獣の、猛りと喜びに溢れた咆哮だった。 |
狩人2008-04-10 Thu 21:18
入り組んだ路地を、なるべく人気の無さそうな方へと進んで行く。
人込みに紛れることも考えたが、相手は逃げた子供一人を捜すのに、 辺り構わず大声を張り上げる連中だ。 例え人が大勢いる場所でも、こちらを見つければ関係なく襲ってくるはずだ。 (ち・・・行き止まりか・・・。) 今居る場所が、この街の中心地付近であることが禍した。 郊外に抜けようとしても、乱立し、軒並ぶ家屋の壁が行く手を遮っている。 上陸したばかりで、この街の地理についての知識はゼロに等しい。 壁を乗り越えて行こうにも、子供を背負った身では難しいだろう。 (仕方がない、ここで遣り過ごすか・・・。) 家と家の間に生じる僅かな隙間に身を沈める。 気を失ったままの子供を背から降ろし、奥の方に座らせた。 そして、自身は何時でも動ける体勢を作り、壁の影から辺りを覗う。 空には満天の星。地は闇のカーテンで包まれている。 ジリリッと虫たちがさえずる音が、遠くで聞こえる。 街の外からは、ホーホーと歌う、鳥たちの声。 そして潮の匂いと共に、海からはザーザーとざわめく、波の息づかい。 そんな夜に相応しくない、人が奏でる異質な雑音は耳に痛いほど良く響いてくる。 しばらくすると、乱雑な人の声や足音が、あちこちから聞こえてきた。 (最初よりも人数が増えているな・・・。) 聞こえてくる音の数から察するに、ゆうに10人は超えていそうだ。 倒された二人の男の様子から、追手の人数を増やしたのだろう。 5・6人の足音が、段々とこちらへ近付いてくる。 それに合わせ、周囲の呼吸に同化するように、細く小さく息をひそめる。 追われることは今までに何度も経験している。こうして気配を絶っている限り、 この条件下では発見されない自信が確かにあった。 と、不意に足音がピタリと止んだ。一瞬の静寂が辺りに流れる。 その空気を裂いたのは、若々しく甲高い女の声だった。 「隠れてるのはわかってんだぁっ!大人しく出てきなぁっ!!」 その声の余韻が退くと、もう一度静寂がやってきた。 女は、それが我慢出来ないとばかりに、もう一度大きく声を張り上げた。 「あたしゃ、面倒臭いのが大嫌いなんだよっ!出てこいったら、出てこーいっ!」 側にいる男が、女の顔色を気にしながら恐る恐る声を掛ける。 「えっと・・・、あ、あねさん・・・。」 「ん、なんだい?」 声をかけられた女が、不思議そうに首を傾げる。 「出て来いと言われて、出てくる馬鹿はいやせんぜ?」 「まあ、そうだよねぇ・・・。」 女は、考え込むような仕草で、コクリと頷いた。が、 「って、うるさいバカッ!言ってみたかっただけなんだよっ!」 恥ずかしさを隠すかのように、声を掛けた男をパシッと叩いた。 「あたしだってそれぐらいわかるさ・・・冷静に言われると恥ずかしいだろ・・・たく・・・。」 やはり気にしているのか、顔を逸らしながらブツブツと言っている。 (・・・何をしてるんだ?) 二人のやり取りを影から見ながら、半ば呆れながらも、何かが引っ掛かった。 会話の様子から、こちらの居場所に確信を得ていないのはわかる。 そして、相手の動きの様子から、全くの素人でもないこともわかった。 付かず離れず、集団での態勢を維持したまま個別に動こうともしないのは、 先の争いで、当初は追い回して捕まえるだけの兎だった獲物が、突如として、 鋭い牙と爪を持つ猛獣に豹変したと理解しているからだろう。 下手に藪を突付いて噛み付かれるのは、素人か愚か者のすることだ。 少しでも狩りの経験がある者ならば、誰もが獲物を追い回している時よりも、 追い込んだ時にこそ、緊張と警戒の姿勢を強める。 だが、あの集団は警戒の雰囲気こそ伝わってくるものの、緊張感が欠如している。 月明かりを頼りに表情を探ると、どこか余裕を隠し持ったような不敵さがある。 狩人が追い込んだ獲物の反撃を、警戒しつつも不敵な笑みを浮かべれる時。それは、 必勝に裏打ちされた手段を既に整え、罠に掛かるのを待つだけの時だ。 (上かっ!) 素早く上を見上げた、その刹那、黒い人影が屋根の上から飛び降りて来るのが見えた。 と同時に、銀色の光を放つものが頭上へと振り下ろされたのだった。 |
獣の咆哮2008-04-07 Mon 21:54
男たちの反応よりも一瞬速く、両腕が前方へと突き出された。
右足を、地面を割るほどの勢いで強く、大きく前へと踏み込む。 全速で駆けた力を、手の中にあるものへと集約し、一気に放つ。 柔らかい肉の感触。それが、手から伸びたものを通して伝わってくる。 子供を掴んでいる男の緩みきった横腹は、背面に貫通するほどに深く抉られていた。 その男は、自分の身に何が起こったのか、全く理解していないようだった。 自分の腹に刺さるように食い込んだもの、これは一体何なのか? 雷に全身を撃たれたような痺れと共に、胃の辺りから何かが込み上げて来る。 喉を通過した熱いものを体の外へと撒き散らせた時、男の思考は激しい痛みの虜になった。 男の手がその目的を失い、力なく子供から離れる。 そして体が、自分の役割を思い出したかのように前のめりに倒れて行く。 意識の全てを戦うことだけに集中する時の、この感覚・・・。 細胞の一つ一つが生き返ったように脈打ち、思考を身体が超えていく。 既に目は、新たな獲物へと狙いを定めていた。 残した後ろ足を引き寄せ、弧を描くように右側面へと前足を移動させる。 その捻れの反動を利用し、腰に力を蓄え、手のものを振りかぶる。 背後に居た男は、不意に仲間を襲った人影に驚きつつも、 反射的に自分の体の前方を両腕で覆い、防御の姿勢を取った。だが、 ゴキッ 男の予想よりも遥かに強力な打撃が、腕の上から容赦なく叩きつけられ、 鈍く響く音だけをその場に残し、男の体はゴム毬のように後方へと吹き飛んだ。 ドサッ(ドサッ) 吹き飛んだ男の背中が、後方の壁へと激突し、弾むように前へと倒れた時、 一人目の男の体が、地面へと到着した重い音が背後から聞こえてきた。 その不協和音の余韻が消えるのを待ち、最後に残った男の方へとゆったりと目を向ける。 男は信じられないという面持ちで、ただ、呆然と立ち尽くしていた。 腰にぶら下った剣の鞘が、当てもなくぶらぶらと揺れている。 男の思考は、戦闘と逃走、勇気と恐怖、その不断の狭間でもがいていた。 突然に、そして強引に、自分たちの身を襲った不幸。 仲間たちの悲痛な呻き声は、さらなる焦燥感を駆り立てる。 先程まで、見せしめという名目で、弱いものを弄り尽くす至福の時間だった。 それが、突如として現れた悪魔によって一瞬にして引き裂かれてしまった。 人の形をした悪夢が、前方から少しずつ近寄ってくる。 その威圧感が、頭が思うよりも先に、足を後方へと走り出させていた。 「ひっ、ひぃー!」 奇声とも悲鳴とも取れる声を上げながら、残された男は一目散に逃げて行く。 その背中を見送り、倒れている二人の男にも抵抗する力がないのを見て取ると、 おもむろに、倒れている子供の方へと歩み寄った。 「大丈夫か?」 頭を慎重に支え、顔に出る痛みの反応を確かめながら、ゆっくりと体を起こさせる。 その子供は、ぼんやりと虚ろになった目に涙を浮かべ、微かに顎を上下させた。 幼さの残るその顔は、地面に倒れ擦った時に付着した石や砂と、自分の吐瀉物で 汚れきってしまっている。この暗さでは、性別さえ判別し難かった。 改めて見ると、身に着けているフード付きのコートも、あちこちが擦り切れ、穴が開き、 破れている箇所が幾つもある。 月明かりに照らされているブロンドの髪は、土や泥を含み光沢を失っている。 (ひどいな・・・。) これまでに送ってきた生活が、どれほど苦しく貧しかったかが容易に推測出来た。 (とりあえず、ここを移動しなければ。) ここでぐずぐずしていると、逃げた男が新しい仲間呼んでくるだろう。 それまでの時間が長ければいいが、油断や楽観は、死の確率を高めると 幾多の戦場での経験が物語っている。 「立てるか?」 背中から手を回し、肩を組むようにして支えながら、立ち上がらせようとする。 「つっ・・・」 子供が足に力を入れ、地面に体重をかけようとした瞬間、短く小さな呻きが口から漏れた。 「足か・・・転んだ時だな。」 よく見ると、右足首の辺りが、倍近くにも腫れ上がっている。かなりひどく捻ったようだ。 「歩くのは無理か・・・。仕方ない、おぶされ。」 そう言われた子供の顔には、ぱっと赤みが差し、目が忙しなく動いた。 恥ずかしそうな、戸惑っているような、様々な感情が混じった複雑な色が表れている。 「躊躇ってる暇はない。早くしろ。」 子供は意を決したように、無言でコクリと頷くと、ふらふらと手を伸ばし、体の位置を 慎重に確認しながら背に跨った。まるで、人の背におぶさるのが初めてかのようだ。 子供の体が、背のものと一緒に、しっかりと固定されたのを確かめると、 もう一度、倒れている二人の男へと注意を払った。 一人は無言で動く気配もなく、もう一人は、腕からくる激痛に耐えられないようで、 あらん限りの声を振り絞り、辺り構わず喚き散らしていた。 二人に向かってくる意思がないことを見届けると、今度は、耳に神経を集中し、 周囲の様子に気を配る。 まだ、大勢がこちらに押寄せて来るような足音はない。 (ありがたい・・・。) 先程は、相手の虚を付いた形で不意を打ったため、簡単にことが済んだが、 ここに駆けつけてくる連中は、逃げた男から状況を聞いていると思って間違いない。 最初から戦う意思を持った人間を、一度に複数人相手にするのは少々厄介だ。 ふと背中が重くなったように感じた。何事かと、背の子供を振り返ると、 その目は閉じられ、口からはゆったりとした息遣いが聞こえてくる。 張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろう。気を失っているようだった。 その様子を見た自分の表情が、緊張で固く強張ったものから、春の雪解けのように じわじわと柔らかく溶け出していくのがわかった。 そして、追っ手が来ない内にと、小走りでその場を後にしたのだった。 |
光と闇2008-04-05 Sat 23:31
酒場を一歩出ると、そこは光と闇が見事に調和した別世界だった。
夜空では大小無数の星たちが、光のドレスに身を包み、 華やかな舞踏会に興じている。 磯の匂いを運ぶ涼やかな風たちは、 酒場の熱気で火照った頬を優しく撫でてくれる。 暗い海の向こうに、小さな灯りがポツポツと見える。 あれが、船の上で聞いた、光寄せ漁と言われるものなのだろう。 光寄せ漁は、魚たちが持つ光に反応する習性を利用した漁法の一つで、 この周辺の海域に住む魚たちが、特にその特性を強く出すところから、 古くより、この街では一種の季節ものの風物詩として、盛んに行われているらしい。 たくさんの松明で海面を照らし、その光に誘われて浮上してきた魚たちを、 2隻の船で張った大網で一網打尽にすくい取るそうだ。 捕らえれた魚たちが、必死に逃げようとして起こす海面のざわつきが、 ここからでも見て取れる。 煌々と輝く漁り火の輪が、漁師と魚たちとの同調と闘争の火であり、 海に生き、海に死んでいくものの命の火そのものだった。 しばらくの間、初めての土地で目にする空と大地の賑わいに、時を忘れていた。 そして、ふと月に目をやると、かなり高い位置にあるのに気付いた。 (さて・・・。宿に帰ってもう一眠りするか。) 上陸一日目の成果としては上出来だった。 この地の情報屋と渉りをつけるのに、ある程度の日数は覚悟していたのだ。 それが、思うよりもトントン拍子に事が進んでいる。 当初の目的を果たせた安心感からか、心なしか足取りも軽い。 太陽のように暗闇を照らす酒場の灯りが、背後で薄くなりかけた頃だった。 唐突に、遠くの方で男たちが騒ぐ声が、静かな夜を引き裂いた。 「見張りは何をしていたんだ!馬鹿野郎っ!」 「お前らは向こうをあたれっ!」 「追えっ!絶対に逃がすんじゃねえぞっ!!」 あちこちで発せられる叫び声から察するに、5・6人はいるだろうか。 大方、観賞用やペットとして取引される動物か何かが逃げ出したのだろう。 人が多く集まる所には、それだけの数のトラブルが付いてくる。 (まあ、俺には関係のないことだ・・・。) 構わずに前へと足を進めようとした、その時だった。 前方右側の細い路地から、大きな何かが飛び出すのが見えたのだ。 そして影は、地面に飛び込むかのような姿勢で、固い土の上へと転げ落ちた。 その影に続いて、今度は大人の男らしい影が2、3と路地から出てくる。 「この野郎・・・手こずらせやがってっ!」 息を弾ませた男の罵声が、辺りに響く。 そして、先頭の男が、先に出てきた影に近寄ったかと思うと、 躊躇いもなく、力一杯にそれを踏みつけた。 「きゃっ!」 男の攻撃に、その影が小さく鋭い悲鳴を上げる。 (・・・子供っ!?) 質が薄く高いその声は、明らかに声変わりのしていない子供のそれだった。 「おらっ!さっさと立たねえかっ!」 そう言いつつ、男はゆっくりと立ち上がろうとする子供の腹を、もう一度強く蹴り上げた。 「ぐっ・・・う・・・う・・・」 腹部を襲ったあまりに強い衝撃は、瞬間、子供の呼吸を止めた。 詰まった息を懸命に吐き出そうとしているのが、口元から漏れる少量の嗚咽で、 痛い程よく分かる。 昼下がりのティータイム。仲間たちで軽い冗談を飛ばし合い、甘いお菓子と 暖かな飲み物を楽しむ。 その心の平穏をそのままに、他者を傷つけられる人間たちがいる。 足元でのたうつ子供の様子を見て、男たちは口元に薄笑いを浮かべていた。 両眼には、無抵抗なものをいたぶり楽しむことを糧にしている人種たちの、 特徴とも言うべき冷めた光が宿っている。 その中の一人の男が、子供の背中にあるフードらしい部分を鷲掴みにすると、 力任せにグイっと手元へと引っ張った。 フードを結ぶ紐が、喉を絞め上げたのか、その子供は声にならない叫び声を上げる。 (この光景は・・・) 刹那、頭の中を過ぎったものは、荒々しく燃え盛り、鎌首をもたげる火の蛇だった。 何かを結んでいた糸、それが凄まじい勢いで弾け飛ぶような音を、確かに聞いた。 その音に触れた途端、目の前が一瞬真っ白になった。 気が付くと、先程まで背中に背負っていたものを両手で握り締めている。 足も既に、獲物を定めた猛禽のように、その男の方へ走り出していた。 「ん?」 自分たち以外の誰かが、かなりの勢いでこちらへと走り寄ってくる。 その気配に気付いた男たちが、訝しそうにこちらに目を向けた。 |
闇に住まう者2008-04-03 Thu 20:12
男は、静かに目を閉じていた。
静寂に包まれた湖面のように微動だにしない。 存在感の希薄さは、そこに確かにいるはずの男の姿を、 薄っすらと靄のかかったように、ぼんやりと見せてさえいる。 (見事だな・・・。) その男が、無意識ではなく、意識してその状態にいるのが分かる。 隠形の技を使う人間は、今までに幾度となく見てきた。 しかし、この距離でこれだけ気配を抑えることが出来た者は、 過去の経験を省みても、指で数えるくらいだろう。 「俺に用か・・・?」 こちらが声をかけるまでもなく、目を閉じたまま、男は小さな声でそう言った。 「ああ・・・。」 これほどの技術を持った情報屋ならば、ある程度の信用を置いても大丈夫だろう。 あのオルマの紹介だからと、不安が無かったと言えば嘘になるが、 中々どうして、人を見る目は確からしい。 「あんたに仕事を頼みたい。」 男は相変わらず目を閉じたままで、こちらを向こうともしない。 「内容によって、報酬が違う。それでもいいか・・・?」 室内の喧騒が邪魔をするのを差し引いても、僅かに聞き取れる程度の、 低く小さな声だった。 こういう仕事をする人間は、大抵に於いて大きく2分される。 情で仕事する人間と金で仕事する人間 情で動く人間は仕事の内容を重視し、金で動く人間は報酬を重視する。 時・場所・内容により、情は人を思いがけず強くするが、反面、酷く脆くもするものだ。 逆に、命を金に代える人間は、仕事に対して怜悧、冷徹でムラがない。 「ああ、構わない。」 目の前の男は、了解したとばかりに頷くと、手元のグラスに注がれている茶色い液体を、 グイっと一息に飲み干した。 「ところで、その目は見えるのか・・・?」 さすがに、開く素振りも見せない目のことが気になった。 そして、それは自分の期待を確信に変える為にも必要な問いだった。 「アカズだと、信用出来ないか・・・?」 逆に問い返され、くだらない問いを発したことに少しだけ後悔した。 が、先刻から、蛇のように纏わりついていたある種の感覚が、すっきりと 身の内から消えていくように感じた。 「いや、気になっただけだ。腕の方は心配していない。」 「会ったばかりで信用されるのは嬉しいが、その根拠は・・・?」 男の表情は全く変化を見せない。口だけが別の生き物のように動いている。 「見事な穏形だった。」 「ほう・・・。」 男は少しだけ口元を崩し、小さいながらも感嘆の声を上げた。 「もっと言うなら・・・あんたの目は閉じていてもよく見えてるようだ。」 「なぜそう思う・・・?」 男は、両腕をすっとカウンターの上に上げると、その手で顎を支え頬杖を付いた。 「俺がこの店に入った時からずっと、あんたこっちを見ていたろう?」 「・・・。」 「ほんの僅かだが、異質な『意』を感じていた。あんたと接して確信したよ。」 一呼吸の間を置き、視線をもう一度男の方へと強く送る。 「俺を見ていたのは、こいつだと。」 相手の反応を見るかのように、もう一度顔を覗き込む。そして、顔に軽い笑みを浮かべた。 「おかげで俺は、余計な神経を使って少し疲れた。」 言い終えるや、ぷいっと男の方から顔を逸らし、両腕を頭の後ろで組んだ。 「く・・・」 その男は、何かを我慢しているようにうつむき、頬杖を付いていた両手で顔を隠した。 「くっ・・・く・・・く・・・。」 男の呻きにも似た低い笑いが、薄く血の気のない口から漏れている。 しばらくの間、その光景が続いたが不意に背中の動悸がピタリと止んだ。 そして、音も無く両腕を下に払うと、すっとこちらに向き直る。 「俺はひどく臆病なんだ。だから、こういう仕事が出来る。」 静寂な男の湖面が、軽く涼やかな波を立てたのはその一時だけだった。 「さて・・・本題に入ろうか。」 依頼の詳細を話している間も、男の纏う雰囲気は全く変わらない。 全てを聞き終えた男は、何も言わずに立ち上がると、その席を後にした。 そして、無造作にスタスタと入り口の方へと歩いていく。 男の影が室内から消えさるまでの間、その背中と周囲の様子を注意深く追う。 だが、男の方へと視線を向ける人間は自分以外の誰一人としていなかった。 ゆっくりと闇の中に溶け込んでいく男の姿が、ひどく自然なものに思えた。 |
酒場の主人2008-04-02 Wed 21:30
カウンターの中では、髪を短く刈り込み、茶色い顎髭を蓄えた巨漢の男が、
悠々とした感じで煙草を吹かせていた。 胸板は鉄板のように厚く、首の周りの筋肉はこんもりと盛り上っている。 見るからに頑強そうなこの男なら、この酒場を仕切るに相応しいように思えた。 近寄りながら男の様子を観察しつつ、ふと、その手元に目をやると、 ショットグラスらしいものをゆったりと丁寧に拭いている。 忙しそうにあくせくと動き回っている使用人たちとは裏腹に、平然としたものだ。 「あんたが、ここの主人か?」 「・・・。」 端から端までびっしりと客が座っているが、何故かその男の前だけ誰も座っていない。 理由を詮索しようもなく、とりあえず男の前へと行き、カウンター越しに質問する。 だが、巨漢の男は全く聞こえなかった風に、素知らぬ顔でグラスを磨き続けている。 「すまないが、あんたが主人じゃないのなら、ここに主人を呼んでもらえないか?」 「・・・。」 話し掛けられていることがわかっているのだろうか、グラスを磨く手を緩めようともしない。 その顔を見ると、煙草を咥えた口元以外、全く動いていないようにも見える。 こちらの声が届いているのかさえ怪しい。 「おい、聞こえているのか?」 「・・・。」 「返事くらいし・・・」 「ん、もう!うるさいわねぇ・・・。気が散るでしょっ!」 こちらの言葉が終わる前に、鋭い怒声が割り込んできた。 男の突然に変わった形相と、その体躯のイメージとはあまりに掛け離れた言葉遣いに、 一瞬、言いかけで開いたままだった口を、閉じるのを忘れてしまった。 「何?何なの?あたしがここの主人、オルマ=ルーツその人よ?」 眉間にシワを寄せ、明らかに不機嫌な顔をした男は、面倒臭そうに応えた。 「悪かった、オルマ・・・さん。」 とりあえず、ここはなだめておこうと謝罪の言葉を口にする。 こちらを無視していた男の無礼を考えれば謝ることでもないのだが、 あまりの衝撃に先程のことを忘れてしまっていた。 どうも先手を取られたようで、口から次の言葉が出ない。 ただの応答に、こんなに動揺したのは生まれて初めてかもしれない。 自分では見るべくもないが、今の顔は相当に間抜けだろう・・・。 「で?あたしに何の用?忙しいんだからちゃっちゃと用件を言ってくれない?」 話し掛けられたこと自体が明らかに迷惑だったようだ。 不機嫌さを隠そうとせずオルマは急き立てた。 「あ、ああ・・・。」 何とか心を落ち着かせ、気を取り直して本来の目的だった言葉を思い出す。 「あんた、この界隈にいる情報屋に知り合いは居ないか?」 「あたしの名前はあんたじゃない、オ・ル・マ!」 「す・・・すまない。」 どうも、この男と話していると調子が狂う。最初の衝撃が大き過ぎたようだ。 「ここの常連客で、情報を商ってる人間は何人か知ってるけど・・・。急ぎかしら?」 オルマは、先程とは打って変わったような真剣な顔つきになっている。 しかし、咥えた煙草をふかすことと、グラスを磨く手は一向に止まる気配を見せない。 「ああ、出来るだけ早い方がいい。」 こちらの話を聞く気の内にと、間髪入れずにそう答える。 オルマは、その言葉を確認した後、ニヤリと口元をほころばせた。 そして、カウンターの隅に座っている男の方をチラリと一瞥しこちらを向くと、 小さな動作で親指を立て、クイッとその場所を指した。 「あそこに座ってる男、あんたがお目当ての男よ。」 この男にお目当てと言われると、少し違った印象を受ける。 本能的に、背中にぞわっとした何かが走って行くのを感じながら、 指で指された場所を目で追い、視線の先にオルマの言った男を確認した。 「ありがとう、邪魔したなオルマさん。」 用は済んだとばかりに席を立とうとすると、慌てた様子でオルマが口を開いた。 「あ、あんた・・・。何か大切なもの忘れてない?」 「大切なもの?」 自分にとって大切なものというと、背中にある包みと、この旅の為の資金。 二つとも手で触れて確認したが、しっかりとあるべき場所にある。 他に思い当たることがなく、何の事かわからない。 考えても考えても思い当たるものがない。どうしても見当が付かず、 助けを求める感じでオルマの方に視線を送る。 オルマはしょうがないと言った顔つきで、煙草から吸った煙を、フウっと吹いた。 「口入料よ、口入料。どこの世界に人を無料で紹介する酒場の主人がいるんだい?」 「ああ・・・。そういうことか、済まなかった。」 (しっかりしている・・・) さすがに、これだけの酒場を切り盛りしている主人だけある、と心の中で舌を出した。 自分の国にそういう風習がなかっただけに、頭を過ぎりもしなかった。 これからの旅では必要になることもあるだろう。気を付けておかねばならない。 「今度あたしの仕事の邪魔したら・・・この酒場から放り出すからね!?」 オルマは、適当な金額をこちらから受け取ると、その数を数えながら満足そうにそう言った。 何となく、急に顔つきが真剣になった理由に合点がいった。 「肝に銘じておくよ。」 オルマの言葉をあしらう様に力なく手を振り、疲れたようにそう言った。 そして、重い足取りでカウンターの隅に居る情報屋の方へと向かったのだった。 |
デコンの酒場2008-04-01 Tue 22:13
鼻を刺すアルコールの匂い、獣肉が焼ける香ばしい匂いが胃袋を刺激する。
しかし、それらの匂い忘れさせてしまう程の汗と熱気。それが、この空間に満ちている。 ここは、この港町で一番の規模を誇る『デコンの酒場』。 航海を終えた船乗り、この街に着いたばかりの旅人、この街で働く工人や、商売人たち。 人が集まる所に必ずやって来る、小遣い稼ぎやネタ集めに躍起の吟遊詩人や道化師たち。 そして、一目と分かるカタギでない連中や夜の住人たちもいる。 普段は顔を合わすことのない、多種多様な人間たちがここには集まる。 そして、誰もが今日の終わりを告げる至福の一杯を楽しんでいる。 室内は、天井を仰げば遥か高く、2階まで吹き抜けになっている。 その広々とした印象とは逆に、オーク材使用の丸型テーブルが所狭しと並んでいる。 丈夫な素材の円卓を用意しているあたり、何とも雑多な人間たちが集まるこの酒場らしい。 男は、船を降りて早々、繁華街近くの手頃な宿を探し、仮眠をとった。 なるべく人目に触れずに情報を集めるには、日が落ちてからの方が都合が良いからだ。 久しぶりの揺れないベットでの安眠を十分に堪能した男は、カウンターに座る宿の主人と 軽い世間話を済ませた後、繁華街で最も人が集まる場所はどこかと尋ねた。 そして、一も二もなく教えられたのがこの酒場だったのである。 (しかし・・・これは・・・) この大陸に渡る前、今尚、故郷として愛している場所にも、 酒場と呼ばれるものはあった。 しかし、大抵のものが10人も入れそうにない小さな部屋を改造し、 専用に仕立てて造り上げたものだった。 この酒場には、今、ざっと見ても100人以上の人間が居るのではないだろうか。 (やはり、異国は違うな) 男は、異国というものに対して無知に等しかった。 男が暮らしていた国は、対外政策において非常に閉鎖的で、 交易における他国の情報になりそうな文化的なものの一切の取引を禁じていた。 辛うじて、日常の生活に必要な陶器や織物などの工芸品は扱っていたので、 内地での生活でも海の外に異国があると知り得たのだった。 詳しく他国の風俗や文化について知る為には、貿易港を有する沿岸の町にでも 住まない限り不可能で、その港町も、国の統制化に置かれていた。 内地へと上がる情報類は関の検問によって厳しく監視されていたのである。 ただ、言語については、船旅の途中に船乗りたちから聞いた情報によると、 現在、地図に載っている場所では全て共通で、意思疎通に支障がないということだった。 もしかすると、各大陸に移り住んでいる人々は、元々は一つの場所から生まれ、 長い年月を経て別れたものであるかもしれない。 男は、なるべく多くの声が聞き取れるように、酒場の中心付近のテーブルから空いている 所を選び、腰を落ち着けた。 そして、腹具合から夕食がまだなのを思い出し、軽く酒食をとることにした。 何を飲むか迷ったが、郷に入れば郷に従えと、周囲の人間たちが飲んでいる「ビィア」と 呼ばれる酒を注文し、その肴にはこの国特有の鶏肉を使った香草焼を頼んだ。 全く知らない土地で、知らないものを口にする。昔の自分なら考えられなかっただろう。 周囲の人間たちの様子に軽く目を配りながら、少しの間、酒場の雑踏を楽しむ。 少し経つと、先ず酒が運ばれて来た。グラスには、その底からフツフツと泡を放つ、 黄色く澄んだ液体が並々と注がれている。 最初は、表面を白く覆っている泡に戸惑い、眉をしかめながら、恐る恐る口にした。 (う・・・ん?) だが、慣れて来るに従って、喉をすっと通るようになった。 ほろ苦い感じが、今まで飲んだ酒とは全く違う。だが、それが旨味に感じ、左程悪くなかった。 少しずつビィアの味を楽しめるようになった頃、清々しい香草の匂いさせながら、 小皿に盛られた骨付きの鶏肉が運ばれてきた。 鶏肉には、ピーコという、この国の雪原に住む大鳥が使用されているそうだ。 引き締まった肉の堅さに少し戸惑ったものの、臭みは香草できれいに消されており、 噛む度に口の中に広がる肉汁が、えも言われぬ味を出している。 生まれて初めての異国の食べものに感動を覚えつつ、丹念に味わいながらも、 注意深く周りの声を集めることは忘れていなかった。 「聞いたかよ?あの領主の話・・・・」 「一緒に働いてるやつがよぉ、嫌味なやつでよぉ・・・」 「あの国の女たちは、そりゃ別嬪揃いだぜ・・・」 「あんたなんか、イボトカゲの餌にでもなっちまいな!」 「ここに来る前に、良い拾いものしたぜぇ、ありゃ高く売れる・・・」 「遠き異国の竜退治、今は亡き英雄たちが夢の跡・・・」 酒が入ると口が良く回るのは、どこの国でも一緒のようだ。 愚痴から、喧嘩、商談や数々の噂話・・・。吟遊詩人たちの取り留めのない歌物語も、 どこからともなく聞こえてくる。 (当たりだな・・・。) 男は心の中でそう呟やくと、テーブルの上のものを片付け、すっと立ち上がった。 そして、酒場の主人がいるカウンターの方へと歩き出したのだった。 |
新たなる大地へ2008-04-01 Tue 01:58
朝の光が目にきつい。
だが、風に揺られて鼻腔をくすぐる潮の匂いは、そう悪いものに感じなかった。 甲板で色黒く日焼けした船乗りたちが、忙しく走り回っている。 毎日欠かさず聞いてきたその喧騒とも、今日で別れとなると少し寂しい気もするものだ。 「わっはっは、よーし、街が見えたぞっ!野郎ども、縮帆だ!入港の準備をしろいっ!」 豪快な笑い声と共に、よく通る明朗な声が船中に響き渡る。 この航海の間、幾度となく耳にした声だ。 「今航海も無事に終わりそうだ、海の守護神、美しい裸の女神にバンザイだぜっ!」 黒く硬そうな縮れた髭を、惜しげもなく顎に住まわせる船長。 顔のしわから察するに老齢の域に達していそうだが、声には若々しい張りがある。 身のこなしは、他の船員と比べても十分に軽い。 船長は、甲板に出てきた人影に気付いた様子で、愉快そうな顔をこちらに向けた。 そして、勢い良く右手を前に突き出し、前方を指した。 「客人、あいつが見えるかい!?あれがクライス大陸の港町、デコンだ!」 船長が指した場所を目で追う。町の方はまだ針の穴のような小さな点にしか見えない。 だが、眼前の視界は、見渡す限りの雄大な大地で覆い尽くされている。 「おい、操舵を代われ!俺は愛しのベッドちゃんとの添い寝タイムだ!」 船長は舵を他の船乗りに預け、近くに置いてあったパイプを手に取った。 お気に入りなのだろう、普段、舵を握る時以外でそのパイプを持たない方が稀だった。 船長は懐から発火石を出すと、慣れた手つきでパイプに火を着けた。 「ふぅ〜・・・」 満足気に、そして旨そうにパイプを燻らせながら、こちらへ近付いてくる。 「もうすぐ待ちに待った入港だ。長い船旅で疲れただろう?」 「そうだな・・・。」 この船旅でわかったことの一つが、海に対する己の認識の甘さだった。 馬の上と左程変わらないだろうと、高を括っていたのだが・・・。 乗船して一日も経たぬ間に、その自信は跡形もなく砕かれた。 思い出しただけでも、気分が悪くなる。 「わっはっはっ!神の洗礼も、海の洗礼も、誰にでも等しく授かるものさ。」 愉快そうに破顔する、その顔の目の下に、薄く黒いものが見える。 昨日の夜は、海が荒れたようで船の揺れがかなりのものだった。 夜を徹しての操船だったのだろう。 船長は、固まった体をほぐすかのように、手を空に掲げ、グイッと大きく背伸びをした。 「ところで、お前さん。ここに何の用があるんだい?」 不意の船長からの質問に少し驚きながら、視線の先を追う。 どうやら船長の目は、自分の左目と、顔をそれた所に注がれているようだ。 「不躾に聞いてすまなかった。ちょいとその背にあるものが気になったんでな。」 「これか・・・。」 確かめるように、右肩から覗いている黒い布の包みへ目を移す。 「左目の傷で、お前さんの生業は何となくわかる・・・。」 船長は、話を区切るように手元のパイプに目を戻し、それから2度3度ゆっくりと吹かした。 そして、過去を思い出すかのような遠い目をして口を開いた。 「職業柄、お前さんのような男たちは幾度となくこの船に乗せた。が・・・」 「そいつ程長い物を、俺はついぞ目にしたことがねぇ。」 船長は、空いた左手ですっと背中のものを指差した。 「使えるのか?」 低い声で訝るようにそう言ったが、その顔が語るものは好奇心以外の何ものでもない。 言葉こそ荒く不躾だが、その屈託のない表情は人を不快にさせるものとは程遠い。 「その時がくれば・・・な。」 その言葉に、船長は一瞬、半ば驚いたような表情を見せた。しかし、すぐに思い返したように 表情を改め、謝罪の意を表した。 「こりゃ、悪かった。使えないものを持って歩く阿呆もいないやな・・・。」 十分に蓄えられた顎髭を、愛しそうに擦りながら整え、 照れくさそうな顔つきで呟く。 「頭で考えるより先に口が滑っちまう・・・。俺の悪い癖だ、客人。大目にみてくれ。」 と、申し訳無さそうに深々と頭を下げた。 「さて・・・、後のことはうちの若い者がやるだろう。俺は夜に備えて寝るとしよう。」 誰と憚らずに大きな欠伸をしてみせた船長は、もう一度、視線の先に目的地を捉えた後、 航海の完遂を確信したのか軽く頷いて見せた。 そして、おもむろにこちらへ振り返えったかと思うと、神妙な顔つきで、 頭にちょこんと乗っている帽子を取り、それを胸へと押し当てた。 「潮の道の幸運が、土の歩みに添えられんことを。」 すうっと目を伏したまま、船乗りに伝わる祈りの言葉を口にする。初めて聞くその言葉が、 心地良い響きを伴って頭の中で繰り返される。 少しの静寂の後、船長は軽い会釈と共にこちらの右肩を軽くポンッと叩くと、 ゆったりとした足取りで船倉の方へと消えて言った。 |
全ての始まり2008-04-01 Tue 00:29
(僕は・・・ここで死ぬ・・・。)
そう確信させるほどの圧倒的な恐怖。 心臓の音が頭に響く。そして、それは得体の知れない生き物のように、体中を這い回る。 自分じゃない何かがそこに住んでいる・・・。 辺りを埋め尽くすどす黒い鉄の匂いが、容赦なく鼻を打つ。 ついさっきまで、弟や妹といつもの場所で遊んでいた。僕たちの秘密基地。 外の世界は、体を包む清々しい花の香りと鮮やかな新緑の色で溢れていた。 白銀に染められた冬の世界を乗り越えて、凍てついた世界が溶け出したことを祝う、 新しい生命たちが誕生していく壮大なセレモニーだった。 なぜこうなったのか?少年はわからない。 少年が見知った現実は、突然、無慈悲なものへと世界を変えた。 今、少年の目に映る全ては、死の象徴である紅い色。 そして、それをぽたぽたと床に垂らしている、白色の「もの」でだけであった。 少年は想う。これは悪い夢だ・・・と。 (僕らは今まで、過ちを犯さず生きてきたはずだ。なのに・・・こんな、こんなこと・・・。) 父はその誠実な人柄が街の皆に慕われている。 母は優しく、時には厳しく、そして温かい。 弟は頭の回転が早くて、僕なんかよりずっと賢い。 妹は母に似てとても人当たりがいい。振る舞いの全てが少女らしい愛嬌で満たされている。 また、全員が信心深く、毎日定められた時間に礼拝に向かう。 一度足りとも欠かしたことはない。 少年の自慢の家族だった。 目の前にある光景全てを否定したかった。こんなものが現実であろうはずがない。 父のお気に入りの様々な調度品で埋もれていたこの広間が、おびただしく飛散した「もの」で 一色に染められてしまった。 その床には伏して物言わぬ父と母。壁に背を預け、力なくうつむき、虚ろな目をしている弟。 「兄ちゃん!兄ちゃん!」 と、泣き叫ぶ妹の声だけが、遠い耳鳴りに似た感覚で聞こえてくる。 これは夢だ。そうだ、全て夢の世界のことなのだ。 (こんな夢、早く覚めてしまえばいい。) 目の焦点が定まらない。夢の世界だ、ぼやけて見えるのも当然だろう。 と、その視界の左上から、何か影のようなものが迫ってくるのが見えた。 ガシッ 不意に目の前がチカッと光り、思考よりも速い速度で、鈍く強烈な音が脳内に響き渡る。 終わりを予感させる決定的な力。 急速に色を無くしていく視界の中で、妹の顔だけがはっきりと見えたような気がした。 (何でそんなに泣いているの?泣いちゃだめだよ、これは夢なんだよ?) 妹をあやす優しい言葉が頭の中に入り込む。頬をさっと伝うもの。それが何かは理解できた。 瞬き程の時間。でもそれは、少年にとって永遠だった。 虚ろな世界が全ての色を失い、深淵の闇だけが後に続いていく・・・。 |
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