雲の足跡  〜呪われた大地 ブラド Another story 〜

追憶の光

カツン、カツンと、硬い地面を打つ足音が辺りに響く。

乱れのない音のリズムと、上下左右に揺るぎなく歩く姿は、
その者が並みの使い手ではないことを感じさせる。

男たちは、先程抜いた剣を急いでしまうと慌てて膝を付いた。
そして、目を合わすのも恐ろしいかのように頭を垂れ、視線を落とす。

その光景を横目にしても、全く意に介す風もなく足取りは変わらない。
それが、さも当然だという様子でこちらへと構わず進んでくる。

月明かりが、徐々にその全体の容姿や輪郭を浮かび上がらせている。

はっきりとは判別出来ないが、歳の頃は20代後半と言ったところか。
黒く長い髪は、しっかりと頭の後方で束ねられてはいるが、
その広い肩幅と肉の付き方が、この者が男であることを教えている。
身の丈は自分と同じくらいだろう。

光に反射し強い光を放つ瞳が、整った顔立ちに強い印象を与えている。
そして、腰に帯びた剣の鞘には、色彩豊かに光を放つ装飾が施されており、
男の容易ならざる地位を物語っていた。

「夜のダンスはそこまでだ。続きは舞踏会でするんだな。」

男は、数歩の距離まで近付くと、軽い調子でそう言った。

「これはこれは、副領主様・・・。供も連れずに夜の見回りですか?」

ヒルダは慇懃に礼をしたが、その口調にはたっぷりと皮肉が込められていた。

「相変わらずだな・・・、ヒルダ。」

男は口元に苦笑いを浮かべ、困ったようにポリポリと頬を掻いたが、
おもむろに右手を上げるとパチンと指を鳴らした。

すると突然、辺り一面が昼のように明るくなった。灯りの場所を探るように周囲を見渡すと、
屋根の上にかなりの数の松明が煌々と燃えている。

「既に手の内ってわけね・・・、何時から見ていたの?」

ヒルダは、睨むようなきつい視線を男に向かって飛ばしている。

「君が戦う雄姿を俺が見逃すはずがないだろう?最初からさ。」

男は、真剣に問うような顔つきをして見せたが、
すっと表情を和らげると、軽く受け流すかのようにそう答えた。

「相変わらず抜け目がないのね・・・リオン。」

「優秀な目が俺には付いてるし、それだけが取り得なんでな。」

リオンと呼ばれた男はにやりと口を緩ませると、もう一度指を鳴らした。
その指の音に呼応する形で灯りは一斉に消え、再び夜の闇がやって来た。
強い光を凝視したせいか、それは先程よりも暗く太いカーテンだった。

男の勝ち誇った様子に、ヒルダは飽きれた感じで溜息をついた。
そして、手にしている剣を一度下に払うと、すっと鞘に納めた。

「仕方が無い、今日はあんたの顔を立てといてあげるよ。」

「それは有難いな。俺の立場が無い場合を思って、座る場所を探していたよ。」

リオンはおどけたようにキョロキョロと辺りを見回し、冗談めかしてそう言った。
そして、くるりとこちらに顔を向ける。

「そこの御仁もそれで宜しいか?まあ、元より争う気が薄かったようだが・・・。」

その問いに、声を出さずこくりと顔を縦に振ると、リオンも満足気に大きく頷いた。

「よしっ、今日のパーティーは終了だっ!各々さっさと寝床に戻って宜しくやるんだなっ!」

集まった男たちを見回しながら、貴族とは思えない口ぶりでそう言うと、
リオンは改めてヒルダの方を向き直った。

「ところで、ユーリは元気か?ヒルトも?」

「ああ・・・、だが、もうあんたには関係ないだろ。」

ヒルダの表情が急に暗くなり、その問いが明らかに迷惑であったような顔を作った。
その口調も、無理矢理に突き放す感じにしているように思えた。

「そうか・・・元気なら・・・、元気ならそれでいい・・・。」

先程まで余裕を前面に出し、不適とも取れたリオンの表情も暗く曇っている。
ヒルダの返答を受け、自分に言い聞かせるように小さな声で呟くと、
さっと踵を返し背を向けた。

リオンの動きを受け、ヒルダも仲間たちの方へと早足で歩き出す。
男たちの集団は、腕の痛みで泣きじゃくるコルスを運ぶ為、四苦八苦している。

歩いて行くヒルダの背中を、どこか悲しげな様子で眺めていたリオンが、
ふと思い出したかのようにこちらへ向いた。

「先程の戦い、見事な手並みだった。宜しければ名前を聞かせてもらえまいか?」

「・・・・。」

唐突にそう聞かれ、どう答えるべきか迷った。すぐに名を告げれず無言になったのは、
隠す訳でも言いたくない訳でもない。今は唯、『言えない』のだ。

「そうか・・・、まあ良い。何れまた会う時もあるだろう。その時に聞こうか。」

リオンはこちらが口を開く様子の無いことから、察したかのようにそう言うと、
ヒルダを追いかけるようにして歩き出した。

その後ろ姿が闇に消えたことを確認すると、不意に全身を疲労感が襲った。
すぐに動く気にもなれず、その場に腰を下ろし後ろへと倒れ込む。

大の字に寝そべり、黒く澄みきった空を仰ぎながら、ひんやりとした大地の感触を
しばし楽しんだ。闘いで火照った体にはそれが何とも心地良かった。

(全てが上手く行く日というのは・・・無いものだな・・・。)

そう自戒しながら、星の瞬き一つ一つに記憶の欠片を重ねて行った。
脳裏には、初めての場所で過ごした一日の出来事が鮮明に甦って来る。

そしてそれが、止め処なく自然に溢れ、頭の中を侵食していく様を、
どこかで愉快そうに眺めている自分が居ることを感じるのだった。

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譲れないもの

その声に釣られ、弾かれたように上方を見上げた。

目に飛び込んで来たものは、光輝く月と星。そこに男の影はない。
その光が不思議といつもより強く感じた。目を指すように痛い。

ストッ

背後で地面と靴が挨拶を交わす、軽やかな着地音が聞こる。
と同時に、左側から太く大きな腕が首に回された。

ゴクリと唾を飲み込む音が、耳の奥に響いてくる。
男の吐く息が肌に感じられ、剣を持つ右手に男の手が添えられた。
抑えようとする意思は感じられるが、必要以上の力は込められていない。

ふとその手に視線を落とすと、切り裂かれた袖口から、冷たく黒光りするものが
こちらを覗いている。

「やっぱり、手甲か・・・。」

「用心深いんでな。」

男は苦笑するようにそう言うと、左手に少しだけ力を込めた。
冷たく硬いものが、首に押し当てられる。その感触で、ヒルダは全てを理解した。

「戦う気はない・・・そう言うことかい?」

「・・・・・・」

男の手にしているのものは、恐らく片刃のナイフだ。
首に当てられている部分は、伝わってくる幅の広さから刃ではなく峰の部分だろう。
少しでもこちらを殺傷する気があるのなら、今の機会を逃すはずもない。

思えば、この男はコルスと戦っている時も、自分と戦っている時も、
唯の一度として自ら攻撃を仕掛けてはいない。

最初に剣を振った時、男の気負いのない涼やかな顔が妙に癪に触った。
余裕たっぷりに相手を見下し、何時でも倒せると思っている顔に見えたからだ。

「あねさんっ!」

後ろを取られ羽交い絞めにされたヒルダを見て、男たちは一斉に剣を抜いた。
だが、組織の副頭目を人質に取られた格好で、誰一人動けずにいる。

(負けたのか・・・あたしは・・・?)

今の自分の体には傷一つ付いていない。
それよりも、相手は戦う意思さえ見せず逃げ回るばかりの男。
そんな男に、背後を取られ、あまつさえ、主導権を与えてしまっている。

軽くあしらわれているように感じる自分が、無性に許せなかった。

(まだ・・・まだだっ!)

ヒルダは歯を噛み締め、首にグッと力を込めた。
そして、首筋に当てられたナイフに向かって行く形で、思いっきり体を前傾さえた。

「!?」

目の前の女の動きは、完全に制したはずだった。
これからどうやってこの状況を切り抜けるか、その算段を探している矢先、
女が信じられない行動に出た。

例え、首筋に当てている所が峰の部分であったとしても、
手首を一つ返すだけで、刃を使い斬ることは容易い。それはわかっているはずだ。
傷つける気は毛頭無い、威嚇にはこれで十分だと思っていた。

だが、ヒルダは首筋に当てられたナイフを物ともせず、こともあろうに、
それに向かって体重を預けたのだ。

一瞬の油断と、相手を傷つけまいとする心が、体のバランスまで崩した。
ヒルダの動きに釣られる形で、前方へと傾倒しそうになる。

ドスッ

その刹那、息の詰まる衝撃が脳天へと駆け抜けた。
ヒルダの左肘が、脇腹へと突き刺さっている。

「ぐ・・ぅ」

完全に虚を衝かれ、腹筋を固める暇が無かった。
瞬間的に呼吸と体の力が奪われ、自然と膝が落ちていく。

ヒルダは、自分を抑えている力が弱まったのを感じ取ると、
右腕を振りほどき、素早く前方へと飛び去った。

「あたしは真剣勝負を挑んだんだっ!命を失うまで負けはないっ!!」

十分な距離を取って構え直し、弾む息を整えながらそう叫ぶ。

「無抵抗など、戦士への侮辱だっ!さあ、武器を取って戦えっ!」

脇腹を押さえたまま、力無い目でこちらを見る男を、罵倒せずにはいられなかった。
自分を鼓舞する為に、そして、その目に惹かれている自分を振り払う為に。

わずかに、二人の間へと無言の静寂が訪れた。
相手が何を考え、どう思い、どう動くのか、それを互いの目を通して探り合っている。
後ろに控える男たちも、その様子を息を呑みながら見つめていた。

「そこまでだっ!ヒルダ!」

この空間に張り詰めていた糸が、その声でプツリと切れた。
その場にいた誰もが一斉に振り向き、声のした場所の唯一点を見つめている。

視線の先に、宵闇に照らし出されるように一つの人影が浮び上がっていた。
その影は、場にいる全ての人間が動きを止めたことを見受けると、
ゆったりとした足取りでこちらへと向かって歩き出したのだった。


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生への錯綜

「イヤァァッ!」

ヒルダが追い足と同時に、片腕での突きを繰り出した。
それは、寸分の狂いもなく正確に、胸の方へと迫ってくる。

サクッ

即座に体を半転させ、その突きをいなしたつもりだったが、
その押し込みの鋭さは、上着の胸元を横一文字に切り裂いていった。

(この距離はまずい。)

相手の勢いを外し間合いを取る為、地面を強く蹴って後方へ飛ぶ。
だが、ヒルダもそれを予期していたとばかりに、素早くこちらの方へと重心を移し、
息をつく暇もなく距離を詰めてきた。

「ハァァアッ!」

強く短い気声がヒルダの口から漏れた。と同時に、反転の勢いと、
体の捻りを利用した重く鋭い斬撃が、女の左の肩口から斜め下へと斬り下ろされる。

ガキィッ!

「殺った!」

男たちが一斉に叫んだ。威力、深さ共に、人の命を取るのには申し分のない一撃。
これで決まったと傍目からはそう見えた。

しかし、ヒルダは躊躇なく体勢を整えるようにして半歩後ろに退くと、
剣を素早く手元に引き、その勢いに任せもう一度袈裟斬りに剣を放った。

ガキィッ!

先程と全く同じ音が、男たちの耳に響いてくる。
月明かりを頼りとして暗がりに目を凝らし、二人の様子をよく見ると、
男の右腕とヒルダの剣がぶつかり合い、押し合っていた。

「ちぃっ!」

ヒルダは大きく舌打ちをすると、歯を食いしばり、力任せにグィッと手を押し込んだ。
こちらは両腕、相手は片腕。如何に元の腕力に差があろうと、体重を込めれる分だけ、
こちらが優勢なはずだった。

(もう少しだ・・・。もう少しで・・・。)

力と力のせめぎ合いは頂点へと達し、体勢で有利なヒルダの剣が、
男の喉元へと徐々に寄っていく。

瞬間、男の方から向かって来ていた力の圧力が、すっと無くなった。
驚きを伴う一瞬の空白の間に、男の体も眼前から消えている。

「あっ!?」

己が放った渾身の力は中空を彷徨い、それが自分の背中を押す形となった。
前方へ倒れ込みそうになるのを、力の流れに乗るように前転して凌ぐ。

何とか跪いた状態で体を起こし、体勢を保った。
思考が次ぎの行動に追いついてこない。まだ目の前で起こった事が信じられずにいる。
息を感じ取れる程に、間近にいた男。それが、目で追えない程の速度で何処かに消えた。

ただ生きる。この世界では、そんな簡単な事に莫大な労力がいる。
隙を見せれば盗まれ、心を寄せれば裏切られ、時には、一方的な力で奪われる。

「弱さは罪だ」と、いつも自分に言い聞かせてきた。
他人に強さは求めない、己の強さ、ただそれだけがヒルダの至高の価値だった。

その為の強さを得え、その自負を通す為に、日頃から肉体的な修練を欠かせたことはない。
組織間の抗争には、常に矢面に立ち、幾度も命の遣り取りを経験してきた。

ヒルダの経験から、単純に側面へと体位を変え、こちらの力を受け流しただけならば、
その動きを目で追い、かつ、剣を反応させる力は、十分に持っているはずだった。

だが、男は文字通り、どこに行ったのか予測不能な程の圧倒的な速度で、「消えた」のだ。

不意に後方からの人の気配が、意識を今の自分が置かれている状況へと引き戻した。
手で包まれ温かく湿った剣の感触を、もう一度確かめる。そして、急いで後ろを振り返った。

振り向きざま、視界の隅を黒い影が過ぎったように感じた。
それを正確に捉える為の僅かな時間、一瞬の貴重な間を、先程の動揺が奪っていた。

(くっ、また!?)

「あねさんっ!上だっ!」

男たちの中の誰かが叫んだ。
       
                       

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炎の鱗

コルスはじろりとこちらを向くと、足を広げ、両膝を曲げて中腰の体勢を作った。

ズズ・・・ズズズ・・・

その足元からは、足の指に力を込めて地面を噛む音が聞こえてくる。
そして、上半身を前傾させた上で、鷹揚と両腕を広げた。

広げた両腕は、左右どこにも逃がさないと言う意思表示だろうか。

(参ったな・・・。)

このコルスという男から感じられるものは、人の放つそれとは別のものだ。
理性よりも明らかに、野生の匂いの方が強い。

1:1の状況になったことは幸いだったが、野生の感覚で戦う者は、
知識と経験で戦う者よりも、動きの予測が立て難い。

(試すか・・・。)

コルスの前足がジリりッとこちらへとにじり寄った。そして、

「ウォォーッ!!」

激しい気声と共に、右腕を頭の上に振りかざし、大きな体を揺らしながら突進してくる。
巨大な肉の塊が、地響きを伴って眼前へと迫ってくる。その圧倒的な迫力は、
並みの人間ならば裸足で逃げ出すくらいのものだろう。

コルスは、突進の勢いを緩めることなく、目の前に居る自分よりも小さな男へと、
力任せに右腕を振り落とした。

グァシッ

肉と肉、骨と骨が互いにぶつかる鈍く重い音が、辺りに響く。
後ろで見ていた男たちは、一様に、終わったという確信の笑みを浮かべた。

「あ・・・あで・・・?」

最初に異変に気付いたのは、一番近くにいたコルスだった。

組織の中でのコルスは、その体を活かした戦闘要員であり、常に前線で戦ってきた。
これだけ大きな港町だと、あらゆる所から人や物が集まり、自然、利益が生まれる。
そのエサに群がる人間たちで、構成された組織は10は下らない。
組織は互いの利益を巡って反目しあい、対立している。争いは頻繁に起こるのだ。

言葉も上手にしゃべれず、考えることは大の苦手だ。
だが、丈夫な体と腕力だけは誰にも負けない自信があり、事実、そうだった。

いつもなら、自慢の右腕を力いっぱいに振り下ろせば、敵の姿は目の前から
消えて無くなる。力の圧に耐えかね、吹き飛んでしまうのだ。

だが・・・

目の前の男は、こちらの攻撃を受けても、その場から微動だにしていない。
左の片腕だけで、こちらの攻撃の勢いを完全に止めてしまっている。

「おいおいコルス、手加減は無しだぜ〜」

「いつものように、さっさと倒しちまえっての!」

「優しいねえ、コルスちゃ〜ん!」

後ろの男たちが、コルスを囃し立てる様に喚き散らしている。

「はは・・・、そ・そうだ・・な。おで、手加減し・・しちゃった・・かな?」

コルスは恥ずかしそうに言うと、右腕は預けたまま、空いた左腕を高々と振り上げた。

「んだ・・ば、も・もう一回・・・。ウォォーッ!」

パキィッ!

乾いたものが折れた、耳に障るような高く響く音がした。

「うぎゃぁーっ!」

最初、悲鳴を発したのはコルスが相手にしている男だと、後ろで見ていた誰もが
信じて疑わなかった。
だが、実際に、悲鳴を上げながら地面をのた打ち回っているのは、
攻撃をしたコルス本人だったのである。

「おで・・の、う・・う・うで・・・でがあぁぁぁっ!」

相手の男と接触したと見られるコルスの前腕の部分が、
内側の方から不自然な様子で、くの字に折れ曲がっている。

「う・・うう・・う・・」

左腕を押さえ、うずくまっているコルスを見下ろすように、男は悠然と立っていた。
男の立っている位置は、微塵も動かず、先程と全く変わっていない。

男がコルスの方へと歩み寄る。それを見ていた男たちの集団は、
目の前に光景に呆気を取られ、時間を奪われたかのように固まったままだった。

コルスは頭の上から近付いてくる足音を感じ、腕の痛みを必死に抑えながら
恐る恐ると顔を上げた。

「あ・・・・あ・・・あ・・。」

眼前の男の目の光が、この上なく冷たく、無慈悲に見えた。
足が竦み、震え、腰に力が入らない。口の辺りでカチカチという音がする。

今思えば、この男と向かい合ったその時から、何かがおかしかった。
今まで生きてきた中で、全く初めてな感覚。
無意識のうちに、口も喉も、張り裂けんばかりの声を発していた。
自らの内に篭もるもの全てを、体中の穴という穴から外に向かって吐き出すように。
その場に立つ己の姿を、意識の外で懸命に探した。そうせずにはいられなかった。

逃げたい・・・逃げられない・・・前に進むしかない。少しでも自分を大きく見せて・・・。

さっきまで頭の中を支配していた痛みが、さっと消えた。
だが、それよりも厄介で、不可思議で、抗い難いものが心の中を支配してしまった。

(こ・・こ、わ・・・いぃ・・・。)

男の手がコルスに届く位置に、後、半歩というところまで近寄った時、
二人の目の前をサッと赤く光るものが横切った。

「そこまでだっ!」

ヒルダの持つ剣が左側から割って入り、コルスと自分との距離を隔てる楔を作る。
丸めた背を震わし呻いていたコルスは、ヒルダが近くにいることに気付くと、
子供のように泣きじゃくり、哀願するような声を出した。

「あ・・・あねさ・・ん・・・、お・・おで・・・おで・・・」

ヒルダは、コルスの頭に手を置くと、赤ん坊をあやす時のような目でコルスを見た。
そして、その頭を優しくさわっと撫でた。

「コルス、悪かったね・・・。最初からあたしがやってればよかった。」

そう言ったヒルダは、さっと男たちの固まりへと目をやった。

「お前たち、コルスの手当てをしてやりなっ!後はあたしがやるっ!」

指示を受けた男たちが、数人掛かりで引きずりながら、コルスを後方へと運んで行く。
ヒルダはそれを見届けると、徐にこちらを向き、怒気のこもった目で睨んだ。

「このままだと組織の沽券に関わるんでね。すまないが、あたしの相手をしてもらうよっ!」

ヒルダの持つ剣の先が、ゆっくりとこちらに向けられる。
その剣の形状は、反身の片刃で長さこそ普通だが、幅が広く分厚い。
そして、何よりも目を惹くのが、刀身が燃えるような赤い色を放っていることだった。

「得物を持ちな・・・。無抵抗な相手を斬るのは趣味じゃないんだ・・・。」

妖艶な光がヒルダの目に込められている。
仲間を傷つけられた怒り、戦いへの渇望、目の前の男への疑惑と困惑、
様々な感情が入り混じり、溶け合い、融合してる。

こちらの無言と、得物を手にする動きすらないことに、ヒルダの苛立ちは頂点に達した。

「舐められたもんだ・・・・ねっ!」

語気を強めた瞬間、ヒルダは手首を返し、踏み込みと同時に持っている剣を右へと払った。
瞬き程の差で後方へと飛び、その剣をかわす。首筋にチリリと熱い感覚がある。

(速い・・・)

油断ならない相手の技量を感じ取り、意識が目の前の女の方へと集約される。
固まって行く視界、だが、緊張と警戒の度合いを強めていく体とは逆に、
心の中が緩やかに鎮まっていくのがわかった。

遠くで楽しげに舞い踊る風たちが、歌を重ねる優し気な声が聞こえた。


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海の落としもの

「くっ!」

咄嗟に、首の付け根の辺りで固定していたマントの留め金を引き千切った。

ガキンッ

空から振り下ろされた剣が、対象と激しくぶつかり合う音が周囲へと響く。

「はっ、殺ったぜ!ざまあみやがれっ!」

自分の勝利を確信した男が、吐き捨てるように大きな叫び声を上げる。が、
次の瞬間、男の手を通してとやってきたものは、何千、何万の蟻たちが、ゾロゾロと
這い上がってくるような奇妙な感触だった。

「!!」

男の手から、するりと剣が落ちた。そして、痺れからくる苦痛に耐えかねるように、
声にならない叫びを発する。

男の剣が捉えたものは、黒い布に覆われた硬く大きな石だった。

不意を衝かれ、剣を受けることが不可能だと悟ったことで、体を左へと横転させながら、
羽織っていたマントを男の方へと投げ付けた。
路地の暗闇と、黒いマントが、空中から接近する男の目測を誤らしたのだった。

「ちっ・・・」

回転の勢いを殺す為、右膝で地面を打ち、跪いた状態で体勢を立て直す。
そして、頭上からの探索を想定しなかった己の甘さを思い、舌打ちをした。

隠れていた場所から飛び出す形となり、視界の端には多数の足が確認出来る。
膝を付いたままの状態で顔だけを上げると、間合いを僅かに外した距離で、
女を筆頭とした集団がこちらを見下ろしていた。

「あねさんっ!間違いねえ、こいつです!」

女の背後から勢い良く男が飛び出し、指を差しながら喚く。

「うるさいよ、チック!仲間を見捨てて逃げ出すようなフニャチン野郎は黙ってなっ!」

先頭の女にすっかりと気勢を削がれ、男はオドオドと集団の後ろへと隠れてしまった。
そして、女は先程まで自分たちが隠れていた場所へと目を移し、声を張り上げた。

「ラット!お前の近くに子供がいるはずだ!捕まえて保護しなっ!」

(保護・・・?)

女が発した言葉に違和感を覚えた。先程の、子供を捕まえようとしていた男たちの行動は、
その表現とは程遠いものだったからだ。

ラットと呼ばれた男が、気絶したままの子供を担いで物陰から出て来た。
女はそれを確かめると、今度はそこから逆の方を向き、屋根の辺りを見上げながら言った。

「イーグ!スネイル!そっちは用済みだ、降りてくるんだ!」

女の視線を追い屋根の方へと目を向けると、黒い影が二つ、
すくっと起き上がるのが見えた。

「さて・・・お兄さん・・・。」

二つの影が移動するのを確認するや、女はこちらを向き直り、
声を低くして呟く様に言った。

「手荒な挨拶で悪かった・・とは言わないよ?家の者が世話になったようだしね。」

両横から、数人の人間が動く足音と気配がする。
子供を抱えたラットが集団の後方へと移動し、
イーグとスネイルの二人が男たちの固まりへと合流した。

女はそれをチラリと一瞥すると、もう一度こちらへ目を向け、話を続ける。

「あたしらの組織の名は『カトラス』と言う。聞いたことないかい?」

そう言うや否や、女は右手の親指を立て、自分の顔を指した。

「そしてあたしは、そこで副頭目をしてる『ヒルダ』だ。」

こちらの返答を待たず、女はそう名乗った。
そして、社交場の貴族が挨拶を交わすかのように、そのしなやかな手を胸の方へとやり、
ゆっくりと優雅に、体を前方へと折り曲げた。

「以後、お見知りおきを・・・。」

お辞儀をするように丁寧に折り曲げられた体とは別に、
鋭く射抜くような目がこちらを向き、口元には不敵な笑みが浮かんでいる。

そのまま、こちらを値踏みするように視線を這わせると、
ヒルダはふと眉間にシワを寄せて、不思議そうな顔をした。

「ふーん・・・、良い体してる・・・。それに、その顔の斬り傷・・・あんた素人じゃないねえ。」

「背中の長い包みは、差し詰め短槍かい?てことは、流れ者の傭兵ってところか・・・」

「その余所者のあんたが、なぜ家にちょっかいを?誰かに雇われたかい?」

「・・・・・・」

下手に事情を話したところで、相手の様子が変わるとはとても思えない。
それよりも今は、この状況をどう切り抜けるかに思案を巡らせねばならなかった。

獲物を使わずにこの人数を相手取れば、こちらも無事には済まないだろう。
男たちが腰に下げている剣を抜けば、素手では限界がある。
だが、出来ることなら背中のものは抜きたくはない・・・。

戦うのは構わないが、事を大きくして、この後も追われるような因縁を作ることは、
絶対に避けなければならない。

こちらの口が開かないのを見て取ると、
ヒルダは仕方の無いと言うような表情を作った。

「そうかい・・・だんまりかい・・・。」

ふっと目を閉じたヒルダは、少し間を置いて後ろの方へと顔を向けた。

「コルスッ!出ておいでっ!!」

ヒルダがそう言うと、後方の集団から、他の男たちよりもひと際体格の良い巨漢の男が、
のそのそと前に歩み出てきた。

背丈は自分の頭二つは大きいだろうか、腕は丸太のように太く、盛り上がっている。
はだけた衣服から覗く胸板は、びっしりと毛で覆われ、鉄板のように厚い。
髪は短く刈り込まれ、顎には無精髭を隙間無く生やしている。

だが、男の顔の作りは角ばった精悍さよりも、丸みを帯びた柔らかさを漂わしている。
クリっとした丸い目は、愛嬌があり妙に子供っぽい。

「あっあね、さん・・・こっ・・こいつ・・・」

コルスと呼ばれた男は、まるで赤ん坊が母親に問う時のような無垢な表情を作り、
吃音が強い、たどたどしい発音で声を出した。

「や・・やって・・やって・・もいい・だか?」

「一応筋は通さないとね・・・。殺さない程度にやるんだよ?」

ヒルダはそう言うと、後ろに控える男たちとは離れる形で、並び立つ家の方へと足を進めた。
そして、壁際まで行くと、すっとこちらへ向き直り、背中を壁に預け腕を組んだ。

「お・・・オウゥー!!」

ヒルダのその動きが合図だったかのように、コルスは勢い良く腕を振り上げ、
天高く、黒い空を切り裂くような雄叫びを発した。表情が先程とは一変している。

それは、戦うべき相手を見つけた獣の、猛りと喜びに溢れた咆哮だった。
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